シリーズ「個人的昔話」の執筆目的
事業発足に必要なのは、
その事業に傾ける「情熱」であり、
「情熱」の源泉は、事業発起人の「原体験」にある。
実業家たちの本をいくつか読み漁って、
上述の仮説を得た私は、
自身の「原体験」を掘り起こすことを思い立った。
原体験を振り返り、
そこで得た人生の糧を、
自分がこれから起こそうとしている事業に活かすことを目的とした、
一種のブレーンストーミングである。
今回の「原体験」
小学校3年生から中学校1年生までの5年間、
私はバスケットボールクラブおよび部活に所属していた。
1987年生まれであれば、小学校2〜3年生くらいの頃に、
TVアニメで「スラムダンク」が放送されていたかと思う。
かくいう私も、視聴者の一人で、
バスケ素人の桜木花道が、強敵・強豪を相手に成長していく様に興奮し、
小学校のホームルームで配布された、
地域のミニバスケットボールクラブへの勧誘チラシによって
ついに自身もバスケをやりたいと思うようになる。
しかし私は、桜木花道のようには、なれなかった。
ただでさえ運動神経が悪いことに加え、
アニメで見た知識しかない自分は、
スポーツとしてのバスケットボールのルールや戦略性について、
よく知りもせず、何より知ろうともせず、
漫然と、コーチや監督の練習メニューをこなすだけの日々。
「あいつは俺より背が高いから強いんだ」
「あいつは俺より足が速いから上手いんだ」
そう思っていられるうちは幸せだった。
そのうち、自分よりも後からバスケを始めた同世代や、
自分よりも年下の子達にすら、実力で離されるようになる。
小学校6年生くらいの頃には、
根本的に自分は運動に向いていないのだろう、ということに、
薄々気付いてはいたのだが、
何故だか「引くに引けない」と思い込んでしまい、
結局小学校卒業まで、ミニバスケットクラブには所属し続けた。
お別れ会のときに、監督に
「最後までよく頑張ったね」
と言われ抱きしめられたのをよく覚えている。
その時、その言葉に、子供心に、疑問や違和感に似た感情を抱いたことも。
中学校進学後、
「部活に入らなければならない」
「バスケを続けなければならない」
という、謎の思い込みから、バスケ部に入部。
そこには、同じくミニバスに通っていた同学年のメンバー。
「このメンバーの中で、自分はカースト最下位だ」
そんな思いを抱きながらの練習の日々。
桜木花道に憧れていた、かつてのモチベーションは、とうに消え去っており、
バスケを続ける意義も意味もモチベーションも何も無かった。
ただただ練習について来れない、成長も無いお荷物の自分。
同世代のメンバーも、先輩も、そんな自分に苛立っていたと思う。
結局、いじめを苦にして、中学2年生への進級を機に退部。
入れ替わりで入学してきた、ミニバス時代の後輩に対し、
「ごめんね。俺、バスケ辞めちゃった」
と告げたのを覚えている。
いったいあの時、私は何に対して謝っていたのだろう。
原体験から得た「気付き」
当時は、ただ辛かった思い出しかなく、
部活を退部してからの中学校人生が、
薔薇色のように楽しかったのを覚えている。
今思えば、いつでもその苦痛から逃げることは出来たのに。
何故もっと早く逃げ出すことが出来なかったのだろう。
高校生、大学生、社会人になりたての時期までの長い間、
当時を振り返るたび、そう思っていた。
最近になって、当時の経験の見方が変わってきた。
あの時、どうしていたら自分が上達する道を歩んでいただろう。
あの時、プレイヤーとして以外で、自分がチームに貢献する方法は無かったのだろうか。
あの時、どうしていたら、自分はもっとバスケを楽しめていたのだろうか。
どれだけ考えたところで、もう当時には戻れないのだが、
幼少期・青年期という、最も多感な時期のうち、
5年間というかなりの期間を費やした、私のバスケ人生。
本当に、身になるものは何も無かったのだろうか。
原体験をどのように昇華するか
まずは
「向いていないこと、苦痛を感じることからは逃げてもいい」
ということを、一人でも多くの人に伝えていきたい。
RPG的な言い回しをすれば、
何故だか自分の戦闘コマンドに「逃げる」が未実装という致命的なバグを抱えており、
その結果、向いていないことに挑み続けなければならないと勝手に思い込み、
自分の人生が勝手に「詰みゲー」になってしまっていた。
バスケ部を退部して半年くらいたったある日、
たまたま帰り道に、当時のバスケ部のキャプテン(先輩)と話す機会があり、
「ゲームでもなんでもいいから、自分が向いていると思ったことをやってみな」
的なことを言われたのを、今でも覚えている。
今の私の視点から見ても、先輩は私よりもずっと大人だ。
「逃げる」という言葉は、マイナスイメージを持たれやすいが、
それはそれで「別方向に進む」ということなので、
「停滞する」よりずっとマシな選択だ。
こどもの頃も、成人した今も、「停滞すると心が枯れる」という感覚は常にある。
「休んでもいいから 止まらないように」。私の好きな歌詞のひとつだ。
私が出来ることがあるとすれば、例えば、私が開講する私塾が、
何かしらの理由で、学校や会社に行けない・行きたく無い人々にとっての、
「逃げ場所」のひとつになればいいと思っている。
もうひとつ。
置かれた状況が苦境であるとき、
「自分が今、どういった状況であるのか」を、
「もう一歩引いた目線で見るべき」だということを伝えたい。
かつての私の場合は、
「どうして私は、上達しないバスケを誰からも求められていないのに続けているのだろう」
という思考回路で止まっていた。
これを、もう一歩引いた目線で、
「私が、バスケが上達するには、体力以外に何が足りないのだろう」
「バスケというスポーツには、プレイヤー以外にどのような立場があるのだろう」
といった考え方が出来ていれば、また違った人生を歩んでいたのかもしれない。
ともすれば、私が目指すべきは花道ではなく、彩子や彦一だったのかもしれない。
選手という道以外に、マネージャーやデータ分析屋といった道があったのだ。
ひとつの事象を多角的に見ることが出来れば、道は開ける。
そのこともまた、ひとりでも多くの人に伝えていこうと思っている。
* * *
とまぁ、こんな感じで、
今後も自分の昔話と、そこから何を得て何を決めたのかについて、
綴っていきますので、お付き合い頂けますと幸甚です。