うきは市じゃねーか!江戸時代に水不足に悩む農村地域を救うべく、水道工事の嘆願書と血判状を提出し筑後川から水を引いた郷土の偉人達の話が歌い継がれている、という話。 / “校歌が8番まである小学校 「死」「はりつけ」歌詞も:朝日新聞…” https://t.co/owy9hUPC2b
私としたことが、教えていただくまでこのニュースに気付かなかった……!
うきは市の小学校に関する記事が大手メディアにて掲載。
記事タイトルに恣意的な何かを感じますが、今回そこは置いておきます。
校歌なのに学校(及びその成り立ち)に関することを何一つ歌っていないのですが、
郷土で起きたある改革について歌われています。
以下、記事を一部引用します。
歌詞には「五人の庄屋」が登場する。栗林次兵衛(夏梅村)▽本松平右衛門(清宗村)▽猪山作之丞(菅村)▽山下助左衛門(高田村)▽重富平左衛門(今竹村)で、江戸初期の寛文年間、水不足で苦しむ農民を見かね、筑後川からの導水を藩に願い出て、実現させた郷土の偉人だ。血判状を添え、失敗した場合は「はりつけの刑」も覚悟したと言い伝えられている。
「庄屋」と呼ばれる、百姓の役人が、
水不足で悩む農民たちのために、命をかけて一肌脱いだ、というお話。
うきは市の主要産業である「農業」を救ったんでしょうね。
しかも、歌詞の7番を見る限り、その偉業の報酬を断っているという、
なんとも漢気溢れる方々だったようです。
歌詞の3番で「この事業失敗したらお前ら磔の刑な」と言われ、
4番の時点で仕置台が早速建てられているのは、
自分らにプレッシャーをかけるためだったのか、
藩からのプレッシャーだったのかが、個人的には気になるところです。
5番にて、筑後川をはじめとする、地域の自然の厳しさを歌い、
6番にて、事業の成功や、恩恵を受けた範囲について歌われていますね。
井堰の説明でたまたま使われている資料が、例の校歌に出てきた水道工事の時の物なのでは。 / “水を取る,井堰 ―大地への刻印” https://t.co/Jp1Vv3KPSp
山田堰古図
九州一の大河、筑後川に江戸初期に設けられた石積の堰。取水ロに鎮座する神社から、巨石を敷き並べた偉容の面影がしのばれる。ここから導かれた用水路には二連・三連の水車が設置されている。
これ、朝倉三連水車のことじゃないかな。
うきは市から筑後川を挟んだ対岸の朝倉市。
ここは今でも観光スポットになってます。
今でも稼働しているハズなので、生きた歴史という感じがしますね。
小さい頃は郷土史にあまり関心が無かったのですが、
こうして歌になっていたり、風景として今でも残っていたりするの、良いですね。
先人達との生活の連続性を感じるというか。
これをきっかけに、自分が住んでいる町がどんなところなのか、
興味を持つきっかけになると良いなと思います。
あと個人的には、
校内に「五庄屋資料館」があり、児童が作った紙芝居や壁新聞などを展示する。
ここがすごく気になる!
児童たちが地域のことを主体的に調べてアウトプットしているのは、
良い取り組みだと思います。
うきは市の地域メディアを立ち上げた暁には、是非取材に行きたい。
あわよくば、児童作品のデジタルアーカイブ化とか、
児童たちの研究成果をデジタル媒体で発表してもらうワークショップとかの
企画・運営なんかをやりたいですね。
うきは市に限らず、こうした地方の情報資源っていっぱい眠っていると思うんです。
これらを市民主体で発信していくモデルの構築を生業にしたいと考えています。